昭和40年7月30日 朝の御理解
どんなに美味しい物でも、食べ物、実際に食べてみない、食べてみてから美味しいと、いうことが分かる。話を聞いてそげなもんか、そげな美味しいものだろうかと、いつも話を聞いておるものだから、本当に自分もそん美味しいように、美味しいといっておるような信心をしておるようなことはなかろうかと。実際、食べてみないと甘いか辛いか分からない。とても味のよい、天下一品の珍味だと、というような味わいのものでも、こういうような味わいがするのだと、美味しいものだと、という例えば話を聞いただけでは、その実感もでないでです、その実感も無しに美味しい、美味しいと言うたり人に話したりしてはなかろうかと、これでは、相手に通わない。ね、例えていうなら私がいかに有難そうに、信心ちゃ有難い、有難い、有難いというておってもです、ね、私自身がそれを、その信心を頂かずして、有難いという実感も無しに人に伝えた所でです、それはなるほど、おー落語やら講談やらを聞いてからでも、やはり、笑う所は笑えたり、その、涙が出る所は泣くのでございますから、ね、話を聞いておる間はなるほどそうかなあ、と合点して聞いておっても、それでは、自分のものにはなりません。ね、私自身がです本当に有難い、有難い、本当に有難いと思うと、(?)は沢山することはいらん、本当に有難いと、こう、私が皆さんに伝えたら、私が真実有難いものであったら皆さんにも、その有難いというものが伝わって行くようなもの。
ね、例えばお風呂に入ってから、あー極楽とこういう。そして、お風呂の中に例えば入っておっても、お湯も入っていなければ、水も入っていないお風呂に入っておってから、はー極楽ち言うたって、実感は出ないでしょう。ね。ひたひたと、自分の体に、お湯なり水なりがです、ね、もう、まあ、いうなら丁度良い湯加減の中に入らせて頂いてです、あー本当に極楽という、その言葉が自ずと出てくるような、空風呂の中に入ってから、あー極楽と言っておるような事はなかろうか、もう私のごたる幸せものはなかろうかと思います。もう、ほんに考えて見ると私のような幸せものはなかと思いますと。いかにも本当のようにいうておる。けれどもそれが、空風呂の中に入って極楽というておるのであるから、脇からみて本当に極楽そうに見えない。いやむしろ術無さそうに見える。そういうような私共極楽をいうておるような事はなかろうか。
なるほど、信心させて頂いておかげを頂くと、おかげを頂いたから有難い、成る程有難いことは有難いけれども、そういう有難いでは大した私は極楽、有難いというものではないと私は思う。ね。それはあのおかげを頂いたので、ね、それが、いわゆるほんにおかげである。蔭のようなものである。ね。蔭のような幻のような、そういうものはその程度の事。問題はその実態になるもの。いわゆる信心を頂いてから、甘い辛い、苦いという事が分かるのである。信心を頂かずにしといて、ね、教えを頂かずしておいて、教えを行じえずしておいて、有難いなど分かるはずがない。ね。どうでしょうか皆さん。本当に教えを行じさせてもろうて、信心を頂かせてもろうて、教えを頂くから信心が成長するのである。教えを頂くから信心が段々分かってくるのであり、成長するのである。そして、信心が成長していくその事がです、ね、信心とは有難いものじゃと、修行ということは尊いものだと、というその実感が私は頂けるのじゃないかと私は思う。
一つ本当に私共がです、しみじみ心の底から、幸せを感じれるおかげを頂きたい。私共真実、教えを行じ頂いて、それから感じられる所の、信心の味わいというものを味わっていきたい。人が食べておるのをみてから、自分が食べておるように、錯覚するような場合がある。
昨日、朝の御祈念が終わってからでした。一通りお届けが済んだ頃でした、福岡の( ? )先生がお参りして見えられた。「先生、もう今日は広大なおかげを頂きました。」ち。バスから降りた、途端に向こうから、( ? )ばあーと飛び出してきた。それはもうあんたその、単車に乗っておる人が名人だったに違いない。もうその、ぶつかる寸前で、( ? )こっちのほうにきとったら、( ? )もう単車をこうしてからその私をよけて下さったと。けれどもそのやはり、(?)腕を出しておるでしょう、涼しそうな洋服を着ておられます、その、肘のところをバアーンとこう、掠っていった。でここがこう青じんでいると。そして今日しみじみ、本当に分からせて頂いたことなんです。というのはです、私は信心させて頂くようになってからです、私は交通事故なんかには遭わないと思うておった。ね。私は絶対神様のご守護があっておるのだから、ね、私は決してそげなことはなかと、こう思い込んでおった。また、言うてもおった。もう息子さんと二人その町にある時出られた。「もうあなたきょろきょろ、きょろきょろしてからもう本当に自動車やらその、もうほかんもんが困りますよ」と、「もう少し落ち着いてから道歩きなさい」と息子が、「いいや私は大丈夫よ」と自分の胸を叩いてから、息子に達にもいいよったっち。「私は、信心しよるから」「私は神様が守ってござるから」、私は怪我をせんと、そういう一つの思い込みですから、まあ、ある意味合いにおいては、(?)けれども、それはあまりの信心だということになるのじゃないでしょうかね。
★ どうでしょうか、そうしましたら、そんなお届けを私聞かせてもらいよりましたらね、タバコを飲んでいるんですよ。ある人がご神眼にそしてそタバコの吸殻をポーンと捨てたんですよ。ね。捨てたらそこになんかちょっとした紙くずの(?)その紙くずに、じりじりと、燃え移っている所を頂いた。ははあ、こういう事では私おかげにならんと私思うんです。「私だん信心しとるけん大丈夫だと」「もうお取次いただいとるけん大丈夫だと」、そげなんことじゃなかち。御取次を頂いたなら頂いた程、信心を本当に頂いておるなら頂いておる程、さっきから私言う、頂いておったらそう言うような事言いませんも、本なこついうたら。もう頂いておったら頂いておったほど、実意丁寧にならなければおられん。お道の信心は。
ね、「私どん信心をさせて頂いておるけん、どげん火ばどくそなつあつこうたっちゃ、火事にはならんがの」ちいうのと同じ事じゃろうもん。そうなれば程神様は間一髪です。ね、燃え上がろうとする時に、気付かせて頂いた、おかげを頂いたというおかげを頂かせて頂いても、信心させて頂く者はそういう不実意な事でよかろうか?なるほど、タバコを飲んじゃならんじゃない、タバコを飲んでも良いけれども、ちょっと灰皿がある所で、ね、しかも、こう丁寧に消させて頂くと言うような、それでいてやはり、いわゆる、家難なら家難、火事なら火事といったようなことでも、縋らなければおられんのであり、願わねばおられんのであるということ。戸締りばどくそにしておってから、どうぞ、盗難の、ございませんようにといったような願いをしておる。日頃、ろくそに扱っておいてから、どうぞ家難の、(?)ますようにというようなお願いをしておる。ね。これでは、あまりもの信心でしょうがみなさん。どうですか。信心させて頂けば頂くほどそこんところが分からねばならんのです。ね。用心、用心させてもらうと言うこと。実意丁寧に注意をさせて頂くという事、ろくそな事をしちゃならんという事。ろくそな事しといてから、ね、それは丁度です、ほうきも握らん、はたきも握らん、ね、雑巾いっちょ持たずにしといてから、どうぞ、家の中がほこりのしませんようにと、( ? )といって願いよるのと同じ事です。
ね、そういう事で心に光がさすことは絶対にありません。信心、心を磨くというけれども、そういうような事では心は磨かれません。ね。磨くなら磨くほど、人一倍はたきもかけな、ほうきもにぎらにゃん、雑巾もかけさせてもらわなければ、いわば、そういうものが光るようにはならないようなものなんです。ね。そういう私は信心。おかげを受けたら、その神恩報謝の信心こそ大事だと、神恩報謝の信心という事。神恩報謝の信心、それを実意丁寧に現して行くということがです、まあよかよか、あのお礼は明日でよかといった、そんな実意の無い信心ではです、言わばろくそな信心ということになるのではないでしょうか。私共の信心もどうもこう、ろくそなこの辺の言葉でいうなら、(?)ろくそなか、信心じゃなかだろうかと一遍思うてみなきゃいけません。そういうような信心から、私が私が幸せだとか、信心が有難いとかいうておるならばです、信心をいわば、教えを頂かず行じづしといてです、はあ、こげなものがこういう風にして美味しい、ということを聞いといてから自分も美味しいといって話しておるのじゃなかろうかと私は思う。もう本当に信心を頂いておるけん幸せでございます、ね、私のごたる幸せものはいないと思いますと。というておってから、本当に私が真実幸せかという事なんです。空風呂の中に入っておってからああー、極楽極楽といいよるとじゃなかろうか、ね、心には痛い、痒いを感じてながら、そして、痛むもなか、痒くもなかといったような、やせ我慢的ないわば、有難さではなかろうか、心の底から有難い、心の底から私のような幸せものはあるまいと、というような信心、そしてそこにはです、一分一厘間違いのない神様の働きを身近にひたひたと感じさせて頂いて、そういうような私信心を段々身につけさせて頂かなければならないと私は思う。ね。神様の万事万端の御都合、お繰り合せというものをです、いわゆるおかげをです、自分達の信心の味わいによって表して行くと言うことなのです。
それでいて、私は初めて本当の幸せを感じると本当の幸せと言えるのじゃなかろうかと私は思う。本当に頂きもせず、食べもせずに、甘いと聞いて甘いと話しておる、甘いというておるような事ではなくて本当に、やはり教えを頂いてみて、ね、教えの味わいを味あわせて頂いてみて、初めておいしいものだという事が、実感的に自分も思い、人にも伝える事が出来るのである。その頂き方がです、いわば実意丁寧な頂き方、私どもが(?)の先生じゃないですけれども、あまり物信心をしておることはなかろうか、神様があるじゃけん大丈夫がな、何が大丈夫じゃろうか、神様の前になればなるほど、私はおかげをそいう、意味合いにおいて、いわば、きちっとした信心をさせて頂いてからでなければ、そんなことは私は言えんと私は思う。
ね。この神様はそういう神様ではない事を私たちは招致しなければいけない。そこから、本当の信心の味わい、いわゆる、信心が頂く事によって、信心が成長していく、信心が成長して行くということは、信心がいわば、ね、1尺なら1尺成長すれば、1尺の蔭というものは必ず伴のうてくる。そういうおかげを頂かせてもろうて、初めて私のような幸せなものはなかろうかとういうような事になってくる信心でなからなければいけないと私は思う。まず、今日は一つ私たちの信心のあまりにもろくそなか、あまりもの信心を一つ顧みてみなければいけない、実際私本当の意味合いに置いてです、おかげを頂いておっても信心を頂かずして、信心の味わいをおかげの有難さを説くぶんなら分かる。けれども信心の有難さを説く資格の無い自分が、信心の有難さをいわば人に伝えておってもそれは、いうだけの事であって、伝わりはしないという事。ね、本当に一つ頂いてみてから、それから、味わいを一つ分からせて頂く、信心を身につけていきたいと思うですね。
どうぞ